おはようございます。
本日は曇り空、ちょっと遅めに起きました
ウトウトしながら遅めの朝食を作り、さてどうしたもんかなと思案しながら時間が過ぎていきます。
そういえば地元に明智光秀の坐像が祀られている寺があるなと思い、今日はそこに行く事にしました。
周山という地域にあるお寺です。
裏の山に光秀さんが築城した城跡が残ってます。
小学校ぐらいの時に遠足で登った記憶がありますが
「石垣っぽいのがあるだけで只の山やん」って感じたのがかすかに思い出されます。
全部読めませんが、要するに
天正年間にこの辺りで4代に渡って悪さしていた宇津氏という土着の武士(國衆というらしい)を叩きのめして丹波平定の足がかりにした、ということかな。
慈眼寺の冊子も頂いたんでその中に書いてあった話をかいつまんですると
室町幕府が滅亡しても反旗を翻していまだに従わない丹波の國衆に信長さんは困っていたと。
そんなわけで配下の優秀な光秀さんに
「ちょっと天下布武に支障が出るから平定しといて」
と総大将に命じて丹波攻略に乗り出したわけです。
そして、この辺りで悪政を敷いていたらしい宇津氏を潰して攻略の足がかりとします。
光秀さんが宇津氏を滅ぼした後に信長公は
「このへん交通の要衝だし戦略拠点にもなるし、城造っといて」
と光秀さんに築城を命じます。
光秀さんも
「琵琶湖の自分家からわざわざ京都を通らずに仕事場に向かえるから、好都合」
って感じで、自身にとっても格好の条件でした。
そんなんこんなで丹波平定を開始した光秀さんでした。
ところでこの地域「周山」と言うのは光秀さんが名付けたそうです。
悪政を敷いてたご当地武士を倒し、農民を圧政から解放しこの地域に善政を敷いて領民から慕われる領主だったそうです。
ただ、平定していく上で全部の地域で慕われていたわけではなく、他の地方によっては逆に恨まれた存在でもあったらしいです。
丹波の國衆の全部が悪政を敷いていたわけでも無いと思うので
普通に良い統治をしていた所からは
「ウチの良い殿様を滅ぼしやがって!」
と恨まれていたかもしれません。
とりあえず明智光秀の黒坐像、いわゆる「黒みつくん」を観せてもらいました。
撮影禁止なので写真はありませんがご了承ください。
住職の話によると最初は金箔が貼られていたそうです。
今も昔も貴重な金を使って、当時まだ生存していた人の像を造る。
光秀さんが本能寺の変をやってから、光秀にまつわる物が次々と壊されていると知り
黒く塗って誰だか分からなくしてまで守ろうとした。
バレたら秀吉にとんでもない処罰を下されたんじゃないだろうか。
この地の領民に慕われていた、というのは本当のような気がします。
今日はこの辺で。