おはようございます。
本日は京北文化遺産センターへ行って来ました。
京北の塔町にある元京北第二小学校を改装して令和4年に作られました。
京北地域の山間や山裾には古墳が数多く築かれています。
5世紀頃に築かれた愛宕山古墳は、1981年に山国小学校の生徒と教員によって発見されました。
先生と生徒で見つけたっていうのが素敵ですね、嬉しかったんじゃないかな。
この敲き石と石皿を見ると、小さい頃にヨモギなどを石ですり潰して遊んでいたのを思い出します。
ドングリとかも割っていたな〜
ヤマト朝廷が古代の法律(律令)に基づく国の体制を整えはじめた7世紀後半、京北地域は丹波(たにわ)国桑田郡となり、弓削里(ゆげのさと)、山国里(やまぐにのさと)、有頭里(うづのさと)、横作里(よこつくりのさと)、池辺里(いけべのさと)等の里が置かれました。
『続日本紀』には養老6年(722年)丹波国の記述には「弓削部名麻呂」(ゆげベのなまろ)という人物が登場しますし、平城京の長屋王邸跡から出土した荷札(木簡)には桑田郡山国里の人として「秦長椋」(はたのながくら)と「伊賀加太麻呂」(いがのかだまろ)という2名が記されており、王家と繋がりがあった人物が山国里にいたことがわかります。
自分が生まれ育った京北という地域が古代より重要な場所になっていたのには素直に驚きました。
延暦3年(784年)長岡京の造営が始まると桂川流域には「杣(そま)」と呼ばれる都の建物を造営するための
木材生育地が置かれました。
また平安時代以降(794〜)は荘園が設けられ、木材のほか山の恵を調達する「杣御料地山国庄(そまごりょうちやまぐにのしょう)」と呼ばれるようになりました。
皇族が領地を寺院に寄進したり、臣下へ下賜(かし)する事により庄内では公家や随行する武家との結びつきを徐々に強め、在地の人々を荘官(荘園領主から現地管理を委ねられた者の総称)として職務ごとに配置するなど地域の生産体制を充実させていきました。
他にも京北地域の山中では平安時代の経塚(きょうづか)が発見されています。
経塚は、経筒に経典や宝物を収めて埋めたもので、極楽往生や現世利益を願う貴族の間で流行しました。
経塚は貴族とのつながりのある寺社の境内内などに設けられたことから、京北地域と平安京が宗教的にも密接に関連していたことが推測されます。
平安の時代から天皇や公家との関わりが強く、それによって発展してきた京北。
他にも理由があるのですが、こうした禁裏とのつながりは人々の意識を育て、戊辰戦争の時にいち早く
「山国隊」として新政府軍に参戦するきっかけとなっていったようです。
子供の頃は何となく明治政府について幕府郡と戦った、ぐらいにしか理解していませんでしたが
遡れば、こんなに古くから天皇家と関わりがあったんだなと調べていて面白かったです。
まだまだ調べ足りないのでもっと勉強していきます。
今日はこの辺で。