『試練の続き: 父の遺した借金という闘い』

父の死は、悲しみ以上のものを我が家にもたらしました。

余命3ヶ月という宣告が現実のものとなり、その悲しみは計り知れないものでしたが、それ以上に突きつけられたのは、父が残した深い借金の穴でした。

葬儀が終わり、一息つく間もなく、私はその現実と向き合わなければなりませんでした。私が立て替えた200万円、そして父が最後に打ち明けた600万円の借金。これらは私の人生に新たな重荷としてのしかかってきました。

その中でも、200万円は私が友人やカードローンからかき集めたお金で、返済先ははっきりしていました。

しかし、問題は父が隠していた600万円でした。西日本政策金融公庫さん、税理士さん、地元の銀行さん、ガソリンスタンドのおじさん、友人の車屋さんと、多岐にわたる借金の存在が明らかになりました。正直、全てを把握することは不可能でした。

他にも、店をやっていた時に仕入れた商品の代金や滞納していた固定電話の料金は理解できるのですが、

なぜこの地域に住んでいるこの人と父が関わりお金を滞納していたのかわからないという人も少なからずいました。

しかし、借りていない証拠はないので払うしかない。

今思うと考え方が甘々だと思います。しかし当時はそこまで考えを張り巡らせる余裕がなかったのです。

この状況に、地元の叔父が救いの手を差し伸べてくれました。私がかき集めた借金を一時的に肩代わりしてくれることになり、私は返済に専念できるようになりました。妹も借金のうち50万円の返済を手伝ってくれました。

これは私にとって本当に助かりました。私の肩代わりした200万は大切な友人から預かったものと、利息が12%近くあるカードローンを3社から借りていたからです。

前者の借金は友人の思いやりで借りたもので、他の方には申し訳ないのですが優先順位を一番上にして返済しなければなりません。

後者は利息12%で150万を借りてる状態がいかに危険か肌身に感じていたからです。

もう記憶から消えかかっているのですが、

確かこのカードローンの毎月の支払いは5年返済で月3万3千円。

で、そのうちの利息が1万5千円。

ほぼ半分が利息です。

全くお金や利息の知識がなかった当時の私でも背筋が凍る思いでした。

ちなみに、父はその200万を「1ヶ月以内に用意してくれ、でないと家を出て行かなければいけない」と言いました。

つまり自宅を担保に入れて借金していたのです。

もちろん200万なんて大金、貯金もあまりなかった私に用意できる手段は借りる事。

つまり「借金を借金で返す」という最もやってはいけない行動でした。

この過酷な状況は、私に多くのことを考えさせました。生活を切り詰め、支出を最小限に抑え、どのようにして返済計画を立てるか。このプロセスは、日々の生活を圧迫し、精神的な苦痛をもたらしました。

当時の私はこの状況がいつ前で続くのかすら見当もつきませんでした。

そして、ここからどんどんと他責思考

つまり

「私は悪くない、悪いのは全て親だ、家族だ、会社だ、地域だ、社会だ!」

「私はこんなに頑張ってるんだから悪くない!」

「みんなが、周りが、私に優しくして気を遣うべきだ!」

そんな心根になっていきました。

『再びの試練:父の闘病と隠された借金』

私たちの人生には、予期せぬ試練が訪れることがあります。

母の葬儀が終わり、一息ついたかと思いきや、新たな困難が私の前に立ちはだかりました。

私の父は、母の葬儀が終わった後、家族が抱える借金が私が建て替えた200万円だけであると説明し、それを返済するために、彼が長年経営してきたお店を売却すると決めたのです。

実家がやっていたお店は、実家の他にあと一店舗近くの地域に昔から構えていました。

借金が膨らみ母の事もあって、父は店を一旦閉めてアルバイトで収入を立てはじめたのです。

私も実家に帰り二人で返済をしていき、ある程度借金の目処がたちました。そこでこの残りの200万円を店舗を売って返し切ろうと考えたのだなと思っていました。

ところが数週間後、父が体の不調を訴えました。父は体が痛いだの具合が悪いなど言わない人だったのに、胃の痛みをひどく訴えたり、体調が悪くてアルバイトを休んだりと昔から知っている私としてはありえない姿を見せ出したのです。

病院での検査の結果、彼の胃に癌が見つかり、さらに末期であることが判明しました。

医師からは、余命3ヶ月との宣告を受けました。この事実を父に伝えるかどうか、非常に悩みましたが、最終的には末期であるとは告知せず、「癌が見つかって仕事はもうできなくなる」「後の借金は200万で店を売って支払うなら私一人で何とかする」と言い父にはゆっくり養生してほしいと伝えることにしました。

しかし、その時、父は急に病院のベッドで頭を抱え出しました。

何事かと思い話すように促してみると私にさらに衝撃的な事実を明かしました。実はまだ600万円の借金が残っているというのです。

父はお店を売り、私が建て替えた200万をまず返し、残りの600万は自分がこっそり返そうと考えていたのです。

言わなかった理由はきっと私にこれ以上負担をかけたくなかったのかもしれません。

しかし私はこの事実を受け止めるのは容易ではありませんでした。母の死、父の病、そして思いもよらぬ借金の存在。一体どうすればいいのか、途方に暮れる思いでした。

このような時、人はどう対処すれば良いのでしょうか? 私は何の誇張もなく本当に他人事のような感覚に襲われました。途方には”表面上”暮れていましたが内心「どこかで誰かが何とかしてくれるだろう」と思っていたのです

当時の気持ちで一つ言えることは、この時はまだ末期がんで余命が3ヶ月とはいえ”父親は生きている”ということです。

こんな状態でありえない感情だとは思いますが、「まだ親が最終的に何とかしてくれる」という子供の心があったんだと思います。

当時は34歳のいい大人でしたが、まだ何か”家に帰れば親が居てくれる”という妙な安心感がありました。それは統合失調症になった母親にも言える事です。

「何か困ったことがあれば親が何とかしてくれる」

この家の問題も「私は手伝いはするが最後は親が何とかしてくれる」父の末期がんが見つかった後も心の奥で何かそんな風に思っていたんだなと今は考えさせられます。

ですが、これからは後ろはありません。

これからは私が最後の砦です。これからは自分で責任を持ち生きていかねばなりません。当たり前のことなのですが、まだこの時の私には腹落ちできない感覚でした。

なぜならどんなかたちであれ親は生きているのですから。

最後の最後に私にとっては無条件に甘えさせてくれる存在がいたのですから。

この後、最初に私が建て替えた200万円と父が話した病院で話した600万円、そして父の死後、色々合わせて100万円が借金として見つかりました。

合計900万円です。

こののち、この経験が私に自分の人生に責任を持ち生きていくこと、そして目指す場所に足を進めること

「行動」することがいかに大事かを気付かせてくれました。

もちろん、当時このあとは右往左往で他責思考の塊のような34歳の男の出来上がりです。

周りに当たり散らすか、上手くいっている人を妬むか恨むか。

「どうせ俺なんて」と自分をとことん卑下して悲劇のヒーローぶり、同情を誘い良い気分になるか。

どうしようもない、そんな期間がこれから続きます。

人生は予期せぬ試練で満ちていますが、それは同時に成長の機会でもあります。

私たちは、困難に立ち向かい、それを乗り越えることで、より強く、賢く、優しくなれるのです。

今の私もまだまだですが、歩みを止めずに生きていこうと思っています。

『看取りの機会を逸した夜:母を送り出すことなく残った後悔』

家族との深い葛藤、そして経済的な苦境の中で、実家に戻ってから5年が経ちました。

この間、私は父の借金返済を手伝い、毎日を懸命に生きてきました。

そんなある日、仕事から帰ろうとしているところに母の容態が急変したという連絡が父からありました。

父が家に帰ってきたら横たわっていて、呼びかけても全く反応がなかったそうです。

母は生まれつき腎臓が悪くあまり長くは生きられないと当時のお医者さんに言われていたと聞いたことがありました。

さらに借金の事で統合失調症という精神的な病を背負ってしまってました。

病院に行くことを嫌がり、徐々に状態が悪化していたのです。その日、母は意識を失い、救急車で病院に運ばれました。医師からは、母の意識が戻る可能性は低く、もはや長くはないと告げられました。

東京にいる妹を除く親戚が病院に集まり、母を見守っていましたが、夜も更け、明日からの看病の準備も必要だということで、父と親戚たちは一旦家に帰ることにし、私がしばらく残ることにしました。

病院の静かな病室で母を見つめながら、私は子供のように泣きました。

「母が死ぬ」という現実が突きつけられ、心は混乱し、受け入れがたい感情に襲われました。深夜の病院での私の泣き声は、静寂の中で虚しく響きました。

しかし私も、疲れとこれからのことを考え、一時的に病院を離れることにしました。

家に戻った本当に直後、病院から連絡がありました。

母が息をひきとった連絡です。

母は誰にも看取られずにこの世を去ったのです。

その知らせを受けた瞬間、私は言葉では表せないほどの後悔に襲われました。

「まだ大丈夫だろう」という油断が、母の最期を看取ることを逃す結果となりました。

その後悔は、私の心に深く刻まれ、消えることはありません。母の最後の時を共にすることができず、その機会を逃した自分を責め続けました。

母の死は、私にとって多くのことを教えてくれました。

人生において、何が最も大切か、そして、後悔のない選択をすることの重要性です。

愛する人がいるうちに、その存在の大切さを感じ、共に過ごす時間を大切にするべきだと痛感しました。

今更言ってもしょうがないんですが、

お母さん、ありがとう。

『希望の見えない日々:家族と借金の重圧に押しつぶされて』

15年前、私は東京の活気あるスーパーマーケットで働いていました。

都会の喧騒と若さに満ちた日々でしたが、東日本大震災が起こったことで、すべてが変わりました。震災から1ヶ月後、父からの一本の電話が、私の人生の流れを大きく変えることになります。母が私のことを心配しているという話で、故郷に戻るよう促されたのです。

しかし、帰郷してみると、現実は想像とはかけ離れていました。

母は重度の統合失調症に苦しみ、会話さえままならない状態でした。そして父は、実家の経済的な困難を一緒に何とかしてほしい、借金の返済を手伝ってほしいと望んでいました。

家の電話は金融機関や高利貸しからの連絡で絶え間なく鳴り響き、平穏な日々は遠い過去のものとなりました。

私は絶望感に打ちひしがれました。故郷に戻ってきたはずが、そこには仕事のない現実、精神的に崩壊している母、そして私に対して借金の返済を迫る父がいました。

父は借金の総額については何も教えてくれず、ただひたすらにお金を要求してきました。私は何とか仕事を見つけ、ただ他人事のように、父の言うとおりにお金を用意し、渡すだけの存在になっていました。

この時期、私は自分自身を見つめ直すことも、自己反省や自己受容を見出すこともありませんでした。

社会福祉事務所や非営利団体に助けを求めることもなく、ただ日々を過ごすことしかできませんでした。

今から考えると自分の未熟さのせいなのですが、当時の生活は、希望とは程遠いもので、何の解決も見いだせない「人生の終わり」とも言える状態にあったのです。

ただこの経験を通じて、私は人生には予測不能な困難が突然降りかかることを学びました。

それらは時に、私たちの想像を絶するものであり、容易には解決できない問題を抱えています。私の体験は、決して希望に満ちたものではありませんでしたが、これが現実であることを受け入れるしかなかったのです。

このブログを通して、私は自分の体験をありのままに伝えたいと思います。すべての人が幸福と希望に満ちた人生を送るわけではないこと、そして時にはただ耐えることが、我々に求められることもあるという現実を。

実家を守る決意:田舎での借金返済と新たな人生

少し自己紹介を。

私は現在44歳です。

昨年長年勤めた会社を退職する前から、京都の京北地区での人生が始まっていました。

10年前に両親が亡くなった際、彼らから900万円の借金と愛着のある実家を相続しました。

この借金は、両親が生前に抱えていたもので、私にとっては家族の記憶を守るための重い責任でした。

私の妹は東京で暮らし、この問題の事も妹は知っていましたが私があまり苦労をさせたくなかったので、私は一人で実家を守り、借金を返す決意をしました。

会社を退職するまでの間、田舎生活と仕事を両立させながら、借金返済に取り組んでいました。京北の静けさと自然の豊かさは、都会の喧騒から離れた安らぎをもたらしましたが、借金の存在はいつも心に重くのしかかっていました。

当時、借金返済のために働く中で、容易ではない道のりを歩んでいました。

今も未来に対する不安を抱かせますが、諦めるわけにはいきません。実家は私にとって、思い出が詰まった大切な場所です。

私の物語は、単に借金返済の話に留まらないものです。それは家族の絆、故郷への愛、そして困難に立ち向かう勇気についてのものです。京北の自然の中で、私は自分自身と向き合い、返済と共に内面の強さを育んできました。

京北には大規模な祭りや地域行事はありませんが、その分、日々の小さな交流が私の心を支えています。地元の人々との会話や、自然とのふれあいは、私にとっての癒しです。借金返済の道のりはもう少しです、新しい人生の章への準備も進んでいます。

この物語は、逆境の中でも希望を見出す力を象徴しています。京北の田舎での生活は、試練でありながらも、心の平和と成長の場所です。家族の絆、自然の美しさを通じて、私は人生の本当の意味を見つけています。どんな困難も乗り越えられるというメッセージを、私の経験から伝えたいと思います。