「苦境の中の自省: 借金問題が映し出す、自己と他者への理解」

借金問題は、人生の舵取りを一変させる力を持っています。

私の経験では、それは単に経済的な負担を超え、人間性までもが試される試練でした。特に職場での私の振る舞いは、借金がもたらしたストレスの深刻な影を投げかけました。

職場では、私は苛立ちやすく、攻撃的な態度を取るようになりました。自分が望まない部署で働かされているという不満が、借金の重圧と結びつき、私をさらに追い詰めました。

この苛立ちは、しばしば同僚や上司、そして特にパートタイムのスタッフに向けられました。

例えば、朝礼の際、集まった従業員を一人ひとり睨みつけ、彼らの存在自体を軽蔑するような態度をとりました。また、パートさんが小さなミスをすると、その責任を厳しくなじり、公然と彼らの能力を否定する言葉を投げつけました。

会議では、上司、同僚が提案したアイデアを冷笑し、社長が意見を促しても鼻で笑って無視し、その場の空気を凍りつかせることもありました。更に悪いことに、これらの行動は、私自身がその状況を全く理解していなかったため、改善の兆しは見られませんでした。

最も悪化していた時は、私の仕事はスーパーでの仕事だったのですが、

朝の商品の品出しの時に、周りが野菜を出したり魚を加工したり開店の準備をしている時に、大声でいかにこの仕事に携わってる事が馬鹿馬鹿しいか、いかにこの仕事をしている人間(私を含めて)が無能で存在価値が無いかなどを声を荒げて怒鳴りつけながら仕事をしていました。

「よくこんなクズがやる仕事で金貰ってられるな、恥ずかしく無いんか?」

「とっととこの店潰れんかな?地域の邪魔やろ!」

「ゴミしか働いとらん。ここで働いてる奴らは人間の恥晒しやな!!」

こんなことを、本当に平気で売り場でも調理場でもいつも怒鳴り声で叫んでました。

些細な遅延やミスに対しても、過剰な怒りを爆発させることがありました。私は声を荒らげ、時には物を叩きつけ酷い時には商品を蹴飛ばすなど、職場での暴力的な行動を取りました。これらの行為は、店舗の従業員の士気を著しく低下させ、全体の雰囲気を悪化させました。

よくクビにならなかったなと本当に思います。いくら日本の会社の正社員とはいえ、ここまで悪影響を与えたら確実に他所なら確実に解雇です。

ですがこの期間、そんな事は何も考えずに、私は自分がどれほど周囲に対して冷酷になっていたか、そして自分の行動が他人にどれほどの負の影響を与えていたかについて、全く気づいていませんでした。

なぜなら

「自分が一番世の中で不幸な人間だから、周りは幸せに何の苦労もなく生きてるから」

「だから、何をしても良い、何を言っても許される」

恐ろしいことに、本当にこんな考えに支配されていたのです。

当時の自分の借金問題に追われ、休憩時間もお金に変えられるものはないか、どの債権者に先に返済すべきかといったことで頭がいっぱいでした。自分以外の何ものにも目を向けられない状態で、自分の精神的な健康さえもおろそかにしていました。返済の計画を練り、次にどの資産を手放すか考えることで頭がいっぱいで、他人への共感や理解を示す余裕など無かったのです。

振り返ると、私のこの時期の行動は、職場における人間関係において修復が困難なほどの亀裂を生じさせました。自己中心的な苦悩に囚われ、他人への配慮を欠いた私の振る舞いは、上司、同僚やパートさんからの信頼を失う結果となりました。

私たちは、自分だけが苦しんでいるわけではないということを、時に忘れがちです。

職場の同僚や上司も、そしてパートさんやアルバイトさんもそれぞれに個人的な悩みや問題を抱えています。

私のように、その苦悩が表面に現れることは少ないかもしれませんが、それでも彼らは自分なりの戦いを続けて人生を生きています。

この認識が深まるにつれ、私は他人に対する共感の重要性を再認識しました。

結局のところ、私たちは皆、自分なりの戦いをしています。私が経験した苦痛は、私を成長させるためのものでした。そして、この経験から学んだ最も大切な教訓は、人間関係は共感と理解から成り立っているということです。

この当時の行いを消すことはできません。

ですが、それでも迷惑をかけた方々へ恩返しできるとしたらこの経験をしっかりと人生に活かすことだと勝手ながら思っています。

本当に申し訳ありませんでした。

「再びの一歩: 家族と共に乗り越える借金問題」

最初の一歩は、西日本政策金融公庫への相談でした。

利息や遅延損害金の問題を一時的に棚上げし、元金の返済方法に焦点を当てるという提案をいただきました。元金は残り約150万程で月々5万円の支払いという計画は、私にとっては一筋の光のようなものでした。しかし、法的な制約から妹もこの返済に加わることに。半分ではありませんが三分の一を妹に払ってもらうことにしました。

続いては地元の銀行、郵便局、ガソリンスタンド、車屋さん、その他のこまごました借金返済の問題に取り組みました。

こちらは、合計で約200万円以上に上り、心が重くなるほどの負担でした。例えば地元の銀行さんは分割ではなく一括で返済をしかも1ヶ月後に求めてこられました。それに他の皆さんも表向きは「少しづづで良いよ」とは言いつつも、長年返済が滞ってた訳ですので本音はすぐに返して欲しいはずです。

すぐにでもこの200万は用意しなければならないと考え、先ず残っていたお店を売る算段を早急につけることにしました。実は父が生前から売りには出していたのですが、少しでも良い値で売りたかったらしく(三百万は欲しかったみたいです)なかなか買手が見つかりませんでした。

しかし、そんな事言ってられません。安かろうとすぐに現金化できる方が大事ですから、半値で店舗のお隣に住んでられる親戚の方に購入してもらう事にしました。幸いその値段なら、ということで話がすぐに決まり150万のまとまったお金を手にできました。

次に父親の国民年金に目をつけました。昨年父は年金を貰える歳になっていたのですが、それを遅らせていたので貰わずに死んでしまったのです。調べていくとその一年分を相続人が貰えることが分かったのです。

金額は50万程で、この土地と父親の年金は今の私にはありがたい親の遺産でした。

これらを使いかき集めた200万で地元の関係者の方々にお支払いをさせていただきました。

200万円を肩代わりしてくれている別の親戚の叔父さんには申し訳ないですが甘えさせてもらいます。

次に私はお店の税理士さんに会いにいきました。

本当に初めて会う方でやはり緊張しました。市内のマンションの一室で税理士業をやっておられて、見た目は70代ぐらいの穏やかな方でした。

話を聞いてくださり、私の祖父の頃からの仕事を貰っていた事や、父から連絡がつかなくなり心配していたという事、もっと早く相談してほしかったと残念がられていました。

他にも未払いの報酬の事はそっちのけで相談に乗ってくださりました。今後金銭面どうしたら良いかとか、家を継ぐときに実家の会社も継いだのでそちらはどのように対応したら良いかとか。

特に印象的だったのは、私が恐る恐る未払い分のお金の話をしようとした時でした。

こちらの税理士さんは、

「お祖父さんの頃からお世話になっているから」

とおっしゃっり未払いの150万円を免除してくださりました。この言葉は、ただの金銭的な支援以上のものでした。地域社会の温かさと、長年培われた信頼関係の大切さを改めて感じた瞬間でした。

このような経験を通じて、私はいくつかの重要な教訓を学びました。一つは、問題に直面したとき、一人で抱え込まずに周囲に助けを求めることの大切さです。

家族、友人、地域社会のサポートは、困難な状況を乗り越えるために不可欠です。また、自分の問題を正直に共有する勇気を持つことも重要です。

もちろんこの当時はこんな事は表面上理解したふりをしていただけです。

自分が大変という事でいっぱいいっぱいで薄っぺらい感謝を述べていた気がします。

現在は、状況を理解し、支援を申し出てくれたこの当時の人々には心から感謝しています。

こうなるには、まだまだ先の話ですが。

『試練の続き: 父の遺した借金という闘い』

父の死は、悲しみ以上のものを我が家にもたらしました。

余命3ヶ月という宣告が現実のものとなり、その悲しみは計り知れないものでしたが、それ以上に突きつけられたのは、父が残した深い借金の穴でした。

葬儀が終わり、一息つく間もなく、私はその現実と向き合わなければなりませんでした。私が立て替えた200万円、そして父が最後に打ち明けた600万円の借金。これらは私の人生に新たな重荷としてのしかかってきました。

その中でも、200万円は私が友人やカードローンからかき集めたお金で、返済先ははっきりしていました。

しかし、問題は父が隠していた600万円でした。西日本政策金融公庫さん、税理士さん、地元の銀行さん、ガソリンスタンドのおじさん、友人の車屋さんと、多岐にわたる借金の存在が明らかになりました。正直、全てを把握することは不可能でした。

他にも、店をやっていた時に仕入れた商品の代金や滞納していた固定電話の料金は理解できるのですが、

なぜこの地域に住んでいるこの人と父が関わりお金を滞納していたのかわからないという人も少なからずいました。

しかし、借りていない証拠はないので払うしかない。

今思うと考え方が甘々だと思います。しかし当時はそこまで考えを張り巡らせる余裕がなかったのです。

この状況に、地元の叔父が救いの手を差し伸べてくれました。私がかき集めた借金を一時的に肩代わりしてくれることになり、私は返済に専念できるようになりました。妹も借金のうち50万円の返済を手伝ってくれました。

これは私にとって本当に助かりました。私の肩代わりした200万は大切な友人から預かったものと、利息が12%近くあるカードローンを3社から借りていたからです。

前者の借金は友人の思いやりで借りたもので、他の方には申し訳ないのですが優先順位を一番上にして返済しなければなりません。

後者は利息12%で150万を借りてる状態がいかに危険か肌身に感じていたからです。

もう記憶から消えかかっているのですが、

確かこのカードローンの毎月の支払いは5年返済で月3万3千円。

で、そのうちの利息が1万5千円。

ほぼ半分が利息です。

全くお金や利息の知識がなかった当時の私でも背筋が凍る思いでした。

ちなみに、父はその200万を「1ヶ月以内に用意してくれ、でないと家を出て行かなければいけない」と言いました。

つまり自宅を担保に入れて借金していたのです。

もちろん200万なんて大金、貯金もあまりなかった私に用意できる手段は借りる事。

つまり「借金を借金で返す」という最もやってはいけない行動でした。

この過酷な状況は、私に多くのことを考えさせました。生活を切り詰め、支出を最小限に抑え、どのようにして返済計画を立てるか。このプロセスは、日々の生活を圧迫し、精神的な苦痛をもたらしました。

当時の私はこの状況がいつ前で続くのかすら見当もつきませんでした。

そして、ここからどんどんと他責思考

つまり

「私は悪くない、悪いのは全て親だ、家族だ、会社だ、地域だ、社会だ!」

「私はこんなに頑張ってるんだから悪くない!」

「みんなが、周りが、私に優しくして気を遣うべきだ!」

そんな心根になっていきました。

『再びの試練:父の闘病と隠された借金』

私たちの人生には、予期せぬ試練が訪れることがあります。

母の葬儀が終わり、一息ついたかと思いきや、新たな困難が私の前に立ちはだかりました。

私の父は、母の葬儀が終わった後、家族が抱える借金が私が建て替えた200万円だけであると説明し、それを返済するために、彼が長年経営してきたお店を売却すると決めたのです。

実家がやっていたお店は、実家の他にあと一店舗近くの地域に昔から構えていました。

借金が膨らみ母の事もあって、父は店を一旦閉めてアルバイトで収入を立てはじめたのです。

私も実家に帰り二人で返済をしていき、ある程度借金の目処がたちました。そこでこの残りの200万円を店舗を売って返し切ろうと考えたのだなと思っていました。

ところが数週間後、父が体の不調を訴えました。父は体が痛いだの具合が悪いなど言わない人だったのに、胃の痛みをひどく訴えたり、体調が悪くてアルバイトを休んだりと昔から知っている私としてはありえない姿を見せ出したのです。

病院での検査の結果、彼の胃に癌が見つかり、さらに末期であることが判明しました。

医師からは、余命3ヶ月との宣告を受けました。この事実を父に伝えるかどうか、非常に悩みましたが、最終的には末期であるとは告知せず、「癌が見つかって仕事はもうできなくなる」「後の借金は200万で店を売って支払うなら私一人で何とかする」と言い父にはゆっくり養生してほしいと伝えることにしました。

しかし、その時、父は急に病院のベッドで頭を抱え出しました。

何事かと思い話すように促してみると私にさらに衝撃的な事実を明かしました。実はまだ600万円の借金が残っているというのです。

父はお店を売り、私が建て替えた200万をまず返し、残りの600万は自分がこっそり返そうと考えていたのです。

言わなかった理由はきっと私にこれ以上負担をかけたくなかったのかもしれません。

しかし私はこの事実を受け止めるのは容易ではありませんでした。母の死、父の病、そして思いもよらぬ借金の存在。一体どうすればいいのか、途方に暮れる思いでした。

このような時、人はどう対処すれば良いのでしょうか? 私は何の誇張もなく本当に他人事のような感覚に襲われました。途方には”表面上”暮れていましたが内心「どこかで誰かが何とかしてくれるだろう」と思っていたのです

当時の気持ちで一つ言えることは、この時はまだ末期がんで余命が3ヶ月とはいえ”父親は生きている”ということです。

こんな状態でありえない感情だとは思いますが、「まだ親が最終的に何とかしてくれる」という子供の心があったんだと思います。

当時は34歳のいい大人でしたが、まだ何か”家に帰れば親が居てくれる”という妙な安心感がありました。それは統合失調症になった母親にも言える事です。

「何か困ったことがあれば親が何とかしてくれる」

この家の問題も「私は手伝いはするが最後は親が何とかしてくれる」父の末期がんが見つかった後も心の奥で何かそんな風に思っていたんだなと今は考えさせられます。

ですが、これからは後ろはありません。

これからは私が最後の砦です。これからは自分で責任を持ち生きていかねばなりません。当たり前のことなのですが、まだこの時の私には腹落ちできない感覚でした。

なぜならどんなかたちであれ親は生きているのですから。

最後の最後に私にとっては無条件に甘えさせてくれる存在がいたのですから。

この後、最初に私が建て替えた200万円と父が話した病院で話した600万円、そして父の死後、色々合わせて100万円が借金として見つかりました。

合計900万円です。

こののち、この経験が私に自分の人生に責任を持ち生きていくこと、そして目指す場所に足を進めること

「行動」することがいかに大事かを気付かせてくれました。

もちろん、当時このあとは右往左往で他責思考の塊のような34歳の男の出来上がりです。

周りに当たり散らすか、上手くいっている人を妬むか恨むか。

「どうせ俺なんて」と自分をとことん卑下して悲劇のヒーローぶり、同情を誘い良い気分になるか。

どうしようもない、そんな期間がこれから続きます。

人生は予期せぬ試練で満ちていますが、それは同時に成長の機会でもあります。

私たちは、困難に立ち向かい、それを乗り越えることで、より強く、賢く、優しくなれるのです。

今の私もまだまだですが、歩みを止めずに生きていこうと思っています。

『看取りの機会を逸した夜:母を送り出すことなく残った後悔』

家族との深い葛藤、そして経済的な苦境の中で、実家に戻ってから5年が経ちました。

この間、私は父の借金返済を手伝い、毎日を懸命に生きてきました。

そんなある日、仕事から帰ろうとしているところに母の容態が急変したという連絡が父からありました。

父が家に帰ってきたら横たわっていて、呼びかけても全く反応がなかったそうです。

母は生まれつき腎臓が悪くあまり長くは生きられないと当時のお医者さんに言われていたと聞いたことがありました。

さらに借金の事で統合失調症という精神的な病を背負ってしまってました。

病院に行くことを嫌がり、徐々に状態が悪化していたのです。その日、母は意識を失い、救急車で病院に運ばれました。医師からは、母の意識が戻る可能性は低く、もはや長くはないと告げられました。

東京にいる妹を除く親戚が病院に集まり、母を見守っていましたが、夜も更け、明日からの看病の準備も必要だということで、父と親戚たちは一旦家に帰ることにし、私がしばらく残ることにしました。

病院の静かな病室で母を見つめながら、私は子供のように泣きました。

「母が死ぬ」という現実が突きつけられ、心は混乱し、受け入れがたい感情に襲われました。深夜の病院での私の泣き声は、静寂の中で虚しく響きました。

しかし私も、疲れとこれからのことを考え、一時的に病院を離れることにしました。

家に戻った本当に直後、病院から連絡がありました。

母が息をひきとった連絡です。

母は誰にも看取られずにこの世を去ったのです。

その知らせを受けた瞬間、私は言葉では表せないほどの後悔に襲われました。

「まだ大丈夫だろう」という油断が、母の最期を看取ることを逃す結果となりました。

その後悔は、私の心に深く刻まれ、消えることはありません。母の最後の時を共にすることができず、その機会を逃した自分を責め続けました。

母の死は、私にとって多くのことを教えてくれました。

人生において、何が最も大切か、そして、後悔のない選択をすることの重要性です。

愛する人がいるうちに、その存在の大切さを感じ、共に過ごす時間を大切にするべきだと痛感しました。

今更言ってもしょうがないんですが、

お母さん、ありがとう。

『希望の見えない日々:家族と借金の重圧に押しつぶされて』

15年前、私は東京の活気あるスーパーマーケットで働いていました。

都会の喧騒と若さに満ちた日々でしたが、東日本大震災が起こったことで、すべてが変わりました。震災から1ヶ月後、父からの一本の電話が、私の人生の流れを大きく変えることになります。母が私のことを心配しているという話で、故郷に戻るよう促されたのです。

しかし、帰郷してみると、現実は想像とはかけ離れていました。

母は重度の統合失調症に苦しみ、会話さえままならない状態でした。そして父は、実家の経済的な困難を一緒に何とかしてほしい、借金の返済を手伝ってほしいと望んでいました。

家の電話は金融機関や高利貸しからの連絡で絶え間なく鳴り響き、平穏な日々は遠い過去のものとなりました。

私は絶望感に打ちひしがれました。故郷に戻ってきたはずが、そこには仕事のない現実、精神的に崩壊している母、そして私に対して借金の返済を迫る父がいました。

父は借金の総額については何も教えてくれず、ただひたすらにお金を要求してきました。私は何とか仕事を見つけ、ただ他人事のように、父の言うとおりにお金を用意し、渡すだけの存在になっていました。

この時期、私は自分自身を見つめ直すことも、自己反省や自己受容を見出すこともありませんでした。

社会福祉事務所や非営利団体に助けを求めることもなく、ただ日々を過ごすことしかできませんでした。

今から考えると自分の未熟さのせいなのですが、当時の生活は、希望とは程遠いもので、何の解決も見いだせない「人生の終わり」とも言える状態にあったのです。

ただこの経験を通じて、私は人生には予測不能な困難が突然降りかかることを学びました。

それらは時に、私たちの想像を絶するものであり、容易には解決できない問題を抱えています。私の体験は、決して希望に満ちたものではありませんでしたが、これが現実であることを受け入れるしかなかったのです。

このブログを通して、私は自分の体験をありのままに伝えたいと思います。すべての人が幸福と希望に満ちた人生を送るわけではないこと、そして時にはただ耐えることが、我々に求められることもあるという現実を。

実家を守る決意:田舎での借金返済と新たな人生

少し自己紹介を。

私は現在44歳です。

昨年長年勤めた会社を退職する前から、京都の京北地区での人生が始まっていました。

10年前に両親が亡くなった際、彼らから900万円の借金と愛着のある実家を相続しました。

この借金は、両親が生前に抱えていたもので、私にとっては家族の記憶を守るための重い責任でした。

私の妹は東京で暮らし、この問題の事も妹は知っていましたが私があまり苦労をさせたくなかったので、私は一人で実家を守り、借金を返す決意をしました。

会社を退職するまでの間、田舎生活と仕事を両立させながら、借金返済に取り組んでいました。京北の静けさと自然の豊かさは、都会の喧騒から離れた安らぎをもたらしましたが、借金の存在はいつも心に重くのしかかっていました。

当時、借金返済のために働く中で、容易ではない道のりを歩んでいました。

今も未来に対する不安を抱かせますが、諦めるわけにはいきません。実家は私にとって、思い出が詰まった大切な場所です。

私の物語は、単に借金返済の話に留まらないものです。それは家族の絆、故郷への愛、そして困難に立ち向かう勇気についてのものです。京北の自然の中で、私は自分自身と向き合い、返済と共に内面の強さを育んできました。

京北には大規模な祭りや地域行事はありませんが、その分、日々の小さな交流が私の心を支えています。地元の人々との会話や、自然とのふれあいは、私にとっての癒しです。借金返済の道のりはもう少しです、新しい人生の章への準備も進んでいます。

この物語は、逆境の中でも希望を見出す力を象徴しています。京北の田舎での生活は、試練でありながらも、心の平和と成長の場所です。家族の絆、自然の美しさを通じて、私は人生の本当の意味を見つけています。どんな困難も乗り越えられるというメッセージを、私の経験から伝えたいと思います。

京北地域の歴史

おはようございます。

本日は京北文化遺産センターへ行って来ました。

京北の塔町にある元京北第二小学校を改装して令和4年に作られました。

小学校の名残がまだ残ってます

京北地域の山間や山裾には古墳が数多く築かれています。

5世紀頃に築かれた愛宕山古墳は、1981年に山国小学校の生徒と教員によって発見されました。

愛宕山古墳出土の銅鏡
同じく出土した玉類

先生と生徒で見つけたっていうのが素敵ですね、嬉しかったんじゃないかな。

鳥居地区の古墳で出土した須恵器
こちらは縄文時代の土器と石器
木の実などを叩き割るための道具

この敲き石と石皿を見ると、小さい頃にヨモギなどを石ですり潰して遊んでいたのを思い出します。

ドングリとかも割っていたな〜

ヤマト朝廷が古代の法律(律令)に基づく国の体制を整えはじめた7世紀後半、京北地域は丹波(たにわ)国桑田郡となり、弓削里(ゆげのさと)、山国里(やまぐにのさと)、有頭里(うづのさと)、横作里(よこつくりのさと)、池辺里(いけべのさと)等の里が置かれました。

『続日本紀』には養老6年(722年)丹波国の記述には「弓削部名麻呂」(ゆげベのなまろ)という人物が登場しますし、平城京の長屋王邸跡から出土した荷札(木簡)には桑田郡山国里の人として「秦長椋」(はたのながくら)と「伊賀加太麻呂」(いがのかだまろ)という2名が記されており、王家と繋がりがあった人物が山国里にいたことがわかります。

自分が生まれ育った京北という地域が古代より重要な場所になっていたのには素直に驚きました。

スリッパが💦

延暦3年(784年)長岡京の造営が始まると桂川流域には「杣(そま)」と呼ばれる都の建物を造営するための

木材生育地が置かれました。

また平安時代以降(794〜)は荘園が設けられ、木材のほか山の恵を調達する「杣御料地山国庄(そまごりょうちやまぐにのしょう)」と呼ばれるようになりました。

皇族が領地を寺院に寄進したり、臣下へ下賜(かし)する事により庄内では公家や随行する武家との結びつきを徐々に強め、在地の人々を荘官(荘園領主から現地管理を委ねられた者の総称)として職務ごとに配置するなど地域の生産体制を充実させていきました。

他にも京北地域の山中では平安時代の経塚(きょうづか)が発見されています。

経塚は、経筒に経典や宝物を収めて埋めたもので、極楽往生や現世利益を願う貴族の間で流行しました。

経塚は貴族とのつながりのある寺社の境内内などに設けられたことから、京北地域と平安京が宗教的にも密接に関連していたことが推測されます。

平安の時代から天皇や公家との関わりが強く、それによって発展してきた京北。

他にも理由があるのですが、こうした禁裏とのつながりは人々の意識を育て、戊辰戦争の時にいち早く

「山国隊」として新政府軍に参戦するきっかけとなっていったようです。

子供の頃は何となく明治政府について幕府郡と戦った、ぐらいにしか理解していませんでしたが

遡れば、こんなに古くから天皇家と関わりがあったんだなと調べていて面白かったです。

まだまだ調べ足りないのでもっと勉強していきます。

今日はこの辺で。

美山の栃餅

おはようございます。

栃餅を食べましょう。

というわけでふらっと美山さん

昔から栃餅が大好きで、丹後や北近畿方面にドライブに行くと

必ず栃餅や栃の実を使ったあんころ餅などを探しては買っていました。

ちなみにお気に入りは兵庫県神鍋にある高砂屋の栃餅です。

川魚も好きなので、こういった甘露煮を見るのも楽しいです。

期待が持てそうな栃餅です

こちらは真空パックタイプです

こちらのソーセージは知り合いの方にめちゃくちゃ勧められたのですが、

今日の目的は栃餅なのでまた今度で。

こちらを購入させていただきました

ぜんざいにしました(゚∀゚)

ぜんざいはレトルトです。

栃餅をレンチンして柔らかくしたところにぜんざいをぶっかけました。

ウマー(´Д` )

美味いです!

栃餅は好きなので色んなところで買うのですが、あまり栃の実を使ってないのか風味が無かったり、

栃の味わいが少なかったりするものが多々あるのですが、これはしっかりと風味も味わいもある。

美味しい栃餅を求めて鳥取まで車で行ったこともありますが

身近なところでこんな美味い栃餅を発見出来るとは。

今度は栃の実を加工する工程を体験したいなと思いました。

まぁ、それは今年の冬になりそうですが‥‥‥

慈眼寺:明智光秀黒坐像

おはようございます。

本日は曇り空、ちょっと遅めに起きました

ウトウトしながら遅めの朝食を作り、さてどうしたもんかなと思案しながら時間が過ぎていきます。

そういえば地元に明智光秀の坐像が祀られている寺があるなと思い、今日はそこに行く事にしました。

慧日山 慈眼寺

周山という地域にあるお寺です。

裏の山に光秀さんが築城した城跡が残ってます。

小学校ぐらいの時に遠足で登った記憶がありますが

「石垣っぽいのがあるだけで只の山やん」って感じたのがかすかに思い出されます。

鐘楼です

全部読めませんが、要するに

天正年間にこの辺りで4代に渡って悪さしていた宇津氏という土着の武士(國衆というらしい)を叩きのめして丹波平定の足がかりにした、ということかな。

慈眼寺の冊子も頂いたんでその中に書いてあった話をかいつまんですると

室町幕府が滅亡しても反旗を翻していまだに従わない丹波の國衆に信長さんは困っていたと。

そんなわけで配下の優秀な光秀さんに

「ちょっと天下布武に支障が出るから平定しといて」

と総大将に命じて丹波攻略に乗り出したわけです。

そして、この辺りで悪政を敷いていたらしい宇津氏を潰して攻略の足がかりとします。

光秀さんが宇津氏を滅ぼした後に信長公は

「このへん交通の要衝だし戦略拠点にもなるし、城造っといて」

と光秀さんに築城を命じます。

光秀さんも

「琵琶湖の自分家からわざわざ京都を通らずに仕事場に向かえるから、好都合」

って感じで、自身にとっても格好の条件でした。

そんなんこんなで丹波平定を開始した光秀さんでした。

ところでこの地域「周山」と言うのは光秀さんが名付けたそうです。

悪政を敷いてたご当地武士を倒し、農民を圧政から解放しこの地域に善政を敷いて領民から慕われる領主だったそうです。

ただ、平定していく上で全部の地域で慕われていたわけではなく、他の地方によっては逆に恨まれた存在でもあったらしいです。

丹波の國衆の全部が悪政を敷いていたわけでも無いと思うので

普通に良い統治をしていた所からは

「ウチの良い殿様を滅ぼしやがって!」

と恨まれていたかもしれません。

とりあえず明智光秀の黒坐像、いわゆる「黒みつくん」を観せてもらいました。

撮影禁止なので写真はありませんがご了承ください。

住職の話によると最初は金箔が貼られていたそうです。

今も昔も貴重な金を使って、当時まだ生存していた人の像を造る。

光秀さんが本能寺の変をやってから、光秀にまつわる物が次々と壊されていると知り

黒く塗って誰だか分からなくしてまで守ろうとした。

バレたら秀吉にとんでもない処罰を下されたんじゃないだろうか。

この地の領民に慕われていた、というのは本当のような気がします。

今日はこの辺で。